はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」。それは、自分とその環境を受け入れようと決めた日です。人生の転換点でした。
▶︎エピソード1◀︎
自分なんて、生まれてこなければよかったんじゃないかと、ずっと思っていた。きっかけは、両親の不仲→喧嘩→別居→離婚だったかもしれない。
高校2年の秋、親の協議離婚の調停のため、私は家庭裁判所に行き、証人台に立ち、「親権は母にしてください」と言わなくてはならなかった。その日の夜、母から「あなたのために今まで我慢したけれど、ごめんね」と言われて、改めて腹が立った。私のため? 勝手に産んどいて、よく言うよ、と思った。
さらに「大学進学の学費は出せないので、諦めて」「高卒で就職して、若いうちに結婚する方が女の幸せっていうものよ」とも言われた。え、それは、離婚を決めた母親が、娘に言うセリフとして、正しいもの??
瞬間、怒りともなんともつかない感情が湧いて「こんな家になんか、生まれたくなかったよ! 産まなきゃよかったのに。そうすりゃ、お母さんも今まで悩まなかったでしょ!」と言い捨てた。私は自分の部屋にこもって、泣いた。何も考えられなかった。
夜中、同居していた祖母が、部屋のドアをノックした。「お腹すいたろ?」と言って、夕飯のおかずを持ってきてくれた。
私が食べ始まるのを静かに見守りながら、祖母がそっと話し出した。「大学、行きたいんだよね? お母さんに素直に話してごらん。おばあちゃんは、あんたの味方だよ」。ごはんと一緒に、祖母の言葉が、おなかにしみた。悔しくて、悲しくて、情けなかったのに、お腹が少し満ち足りてくると、ものを考えられるようになる。
翌日、母に「大学に行かせてください」と、頭を下げて頼んだ。
同時に、日本育英会(当時)の予約奨学生に申し込めるかどうか、進路相談室の教師に尋ねて、準備を始めた。
その後、現役で自宅通学できる大学への進学が必須となり、真剣に受験勉強を始めた。塾に行く費用をねだることは憚られたので、「大学受験ラジオ講座」と各種参考書、赤本で乗りきるしかなかった。私立文系3教科でなければ、もっと間に合わなかったかもしれない。受験結果は、結局、1勝2敗で終えた。
親の離婚がなければ、もしかすると、あんなに必死に勉強しなかったかもしれない。
負荷があることが励みになリ、マイナスはプラスに転じられるのだな、と思った。
▶︎エピソード2◀︎
雑誌編集者になれて、嬉しかった。仕事が好きだった。30代前半で結婚することになったが、上司から「まだ(おめでたで)退職はしないでねー」と冗談半分、本気半分で言われ、私自身が「あはは」と笑い飛ばしているくらいだった。
それが、あるとき、生理が遅れ、妊娠していることに気づいた。ただ、微妙な出血が続いていて、二重の意味で「どうしよう」と思った。迷いがあった。
出血がひどく貧血になり、倒れそうになって病院に駆け込んだところ、医師から「切迫流産です。このまま入院してください!」と言われた。車椅子に乗せられ、トイレ以外、ベッドから出ることも禁じられ、絶対安静の状態だった。突然のことで、仕事も何も手が打てなかった。
ベッドに横たわり、点滴を立て続けに打たれ、ぼーっと天井を眺める日が続いた。
勤務先の上司は、病院に来ることを希望していたが、夫に頼んでやんわりと断ってもらった。今、勤務先の上司にあったところでなんと返事ができるだろう? なんで、私はココにいるのだろう? もしかして、「子どもを産む」ことを受け入れようとしている?
でも出血はひどく、妊娠が継続できるかどうかは全く予想ができなかった。もしかすると流産になって、私は少し休めば仕事に戻れるのかもしれない、とも思った。
この子は、生きたい? 私に仕事をやめてもらいたいと思っている? それともまだ、仕事を続けさせてくれる? 妊娠という事実に、私は戸惑うばかりだった。
まだ育児休業が企業努力でしかない時代、誰も女性の先達がいない中小出版社で、編集者を続けていくのはかなり難しそうに思えた。
その時点では、正直言って、私はその子を愛していなかった。愛せなかった。邪魔しないで、とさえ思った。そのわりに、ベッドでの絶対安静を守り、事態が好転するのを期待していた。
「好転」とは、どっちだろう? 自分で自分を持て余していた。
↑小指が短いのは「家族運が悪い」と、手相の本にあった。
妊娠8週未満の切迫流産から、流産に至る率は、そんなに低くはない。私のいる4人部屋の病室は、いずれも切迫流産の女性で、ほぼ1週間以内に状態は変わり、私を除く3人は10日以内に退院していった。そこに、私は20日間もいた。
出血は続いていたのに、妊娠は継続できていたのだ。画像で胎児の様子が確認できるようになった。胎児の画像を見たとき、涙が溢れた。
その時点で、自分で胎児を受け入れることができた。二者択一ではなく、仕事と胎児(妊娠・出産)の両方を受け入れることを希望するようになった。
仕事のハンディキャップになるかもしれないけど、仕事の励みになるかもしれないし。
少なくとも、母が「お前のために」と言い続けて私を困らせるようなことは言わない。
私は「子どものために、仕事を諦めた」とは一生、言わない。
できない理由、やらない原因を、他の人のせいにはしない。
それを決めた日が、忘れられない。